「これまで私を動かしてきたのは、勢い、好奇心、だったかもしれない」とオックスファム・ジャパンの事務局長を務める米良さんは笑った。学生時代持った国際協力への関心をルーツに、10年以上務めた企業、大学院、カンボジアでのNGO経験など全ての経験は、勢い、好奇心といった一見衝動的に聞こえる米良さんの原動力によって、一つの線としてつながり、米良さんの今のキャリアを形成している。父親の転勤で高校時代をアメリカで過ごし、大学もそのままアメリカで進学することとなった米良さん。大学時代は国際関係学を学び、当時学内でhabitat for humanity、Amnesty internationalなどの非営利の団体の活動が盛んなのを見て、国際協力に関わってみるのもおもしろそう、という好奇心を持っていたところ、夏休みを利用してニューヨークのUNICEF事務所でのインターンすることが決まった。UNICEFでは、民間企業や個人(アーティストなど)との連携事業の企画・営業を担当し、市場の動きや情報をキャッチして、連携できそうな企業との事業をとにかくひとつでも多く立案し提案していくことが業務内容だった。民間企業とUNICEFがwin-win関係を保ちながら社会貢献につながる事業連携に頭をひねり、今はその考え方も浸透しつつあるCSRを企業に持ちかけていくことも珍しくなかった。企画を立て、説明し、企画を実現していく、というどこの世界でも求められるスキルはこのインターンによって鍛えられた、と米良さんは言う。卒業後、アメリカで就職することを選ばず、米良さんは、商品企画、仕入れ、販促計画などを一手に担うマーチャンダイザーとして日本のスポーツ用品メーカーに就職する。外国に居続けることで日本人でありながら日本に居場所がなくなるのではないかという不安感や、日本にルーツをもちたいという思いが高じ日本で就職することを選んだそうだ。メーカーでは海外営業を担当しており、生産拠点となる途上国との関わりは多かった。途上国の工場との折衝という現場をビジネスの立場で経験しながらキャリアを積んでいた米良さんに転機が訪れたのは1995年、阪神・淡路大震災の時だった。当時大阪に住んでいた米良さんは被災地を肌身で感じ、緊急支援の現場を間近で目撃する。また、震災によって友人も亡くなった。亡くなった友人の遣り残したことはたくさんある、自分もやり残しのない人生を送ろうという思いが、神戸市長田区から発信しているFMわいわいという日本では初の多文化・多言語コミュニティのFM放送局で番組の企画を行う一方、DJとして情報を発信する活動につながっていく。一方でメーカーでの仕事を続けながら関わったFMラジオ放送の番組づくりは、これまでのUNICEFでの企画づくり、メーカーでのものづくり、の経験が活き、ものを作って発信していくという米良さんの社会へのアプローチの柱をいつしか作っていた。その頃2度目の転機となったのは親しい友人の癌による死だった。独立し、夢に向かってまい進しているさなかに病に倒れた友人の死は、米良さんに「明日はわが身」と思わせる。会社員としてのキャリアが10年を越し、学生時代学んでいた国際協力への関心が再燃し始め、大学院で開発を勉強することを決意する。途上国で仕事をする人たちの中には、自ら生死をさまよったり、身近な人の死を経験し、「自分の人生に悔いなく、誰かのためになる仕事をしたい」という動機を持つ人も多いと聞く。米良さんもその一人であり、原点に戻る選択をし、新たな人生を切り開き始めたのがこのときだったのだろう。国際協力業界への新たな一歩は、社会人になって約10年が経った頃決断した、米国Brandeis大学院の国際開発プログラムへの留学から始まった。Brandeis大学国際開発プログラムは現場経験豊富な先生が多く、学生たちは在籍中インターンなどを通して実務を経験することが推奨されている現場重視のプログラムだ。米良さんはこれまでの経験を活かし、修士2年目にカンボジアをフィールドにする米系NGOのEducational Television for Cambodia(現在はWorld Educationに吸収)でインターンすることとなる。米国の子供向け番組「セサミ・ストリート」の内容を、カンボジア国内ロケやクメール語(カンボジアの公用語)の吹き替えによってカンボジア仕様で放送するというのが主な事業内容。番組内でカンボジア国内の様々な人を紹介する一方で、アメリカ社会や英語との接点となる番組として現地では受け入れられた。この現地事務所の外国人スタッフは米良さん1名のみ、カンボジア人のスタッフと共に全国を奔走し、畑の真ん中にスクリーンと映写機を持ち込んで、移動紙芝居ならぬ、「移動テレビ番組」を放映、テレビ局に放映の交渉に行ったりした。インターンを通して培ったものは「当たって砕けろ!」の精神だったという。大学院卒業後のキャリアは、開発業界の場合、関わりたい課題、関わりたい国によって選び方が変わってくるが、米良さんは「場所はどこでも良かった」。現在勤めているオックスファム・ジャパンを選択した理由は、カンボジアの現場で日々途上国の人々の暮らしを目の前にして仕事をする中で、貧困と向き合っているもっと多くの人を少しでもサポートすることや、人々の生活改善に影響を与えられる仕事を考えるようになり、アドボカシーや政策提言を行うNGOであるオックスファム・ジャパンを選んだ。オックスファム・ジャパンは現場でのプロジェクト実施と政策提言・アドボカシーの両方を行う珍しい組織だったことも選択の大きな理由だったそうだ。オックスファム・ジャパンでは、コミュニケーションオフィサーとして、「ものをつくり発信していく」企業での実務経験、カンボジアでの現場経験など今までの経験が最大限活かせるだろうと確信した。また、コミュニケーションオフィサーという名前はあるものの、小さな組織では発生する業務は何でもやらなければいけないため、これまでの様々な経験が活きてくる。その後、事務局長となり、日本国内に根ざした活動を目指して活動している。世界のオックスファム・ジャパンで30年続いているファンドレイジングイベント、100kmを歩くトレイルウォーカーは日本は市町村や協賛団体なども巻き込みながら人をつないでいく事業として今年3年目を迎え、米良さんが育ててきた事業だ。日本国内ではファンドレイジングの他に日本政府に対する政策提言もしており、オックスファム・ジャパンの国際ネットワークを最大限活用して、現場の声を直接届けるような提言に心がけている。現在特に注力しているのは必須社会サービスと呼ばれる教育や保健医療の分野の改善についての政策提言である。インターンも幅広く受け入れており、「自分の学生時代がそうだったように、若い人たちにもインターンの経験を糧にしてほしい」という想いで日々接しているそうだ。オックスファム・ジャパンをマネジメントする立場に立たれる米良さん。これまでの企業経験がなければ今はないとおっしゃるが、どのような点が役立ったのだろうか。「まず、うたれ強くなったこと。そしてNGOの運営は中小企業の経営に似ていると思うが、企業経験を通して資金繰りができるようになったこと。また、資金や資源を集めるだけでなく、企業に対してオックスファム・ジャパンが提供できる価値を打ち出していくなど、営業力がついたこと」だそうだ。米良さんは今後、いろいろな手の組み方を通して、一個人でできる限界を超えて貧困の仕組みを変えていくこと、また政策提言の結果を出していくことを目指しているそうだ。最後に開発業界を目指す人たちへのアドバイスを伺った。「開発業界に限らず、なるべくいろんなことを吸収し、引き出しを多く持ってほしい。NGOや政府職員だけでなく、企業に入り社会貢献していく、など選択肢はたくさんあります。」好奇心と勢いは確かに米良さんを突き動かしてきた。ただ、自分自身のルーツを持つことを意識し、仕事や勉強の場で学んだことを確実に昇華して次の仕事につなげている米良さんのお話から、なにより「目の前の仕事に着実に真剣に向き合う」という姿勢の大切さに気がつかされるのではないだろうか。オックスファム・ジャパンのキャンペーン・オフィサー(フルタイム)募集中。詳しくはこちらJPN
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