華やかな商業複合施設・東京ミッドタウン(東京都港区)の一郭で、今夏「世界を変えるデザイン展」が開催された。展示会では、発展途上国に住む人の直面する貧困や住環境の問題解決に向けた製品が紹介されている。
デザイン展の実行委員長を務めるのは、株式会社グランマの本村拓人氏。09年に起業したばかりということもあってか、足踏み式の汲み上げポンプや水を濾過するライフストロー、義足などを調達するに際し難儀したという。海外の製造元は商業目的での開催やアイデアの流出を恐れたからだ。どれほど文書で自らの来歴やコンセプトを説明しようとも信頼の担保にはならない。
本村氏は何度も製造元に足を運び、熱意とビジョンを伝え、さらには相手にとっての利益と価値を力説した。交渉にあたっての要点をこう述べる。
「現場を第一にしています。このスタンスのよさは嘘をつけないことです」
御託は抜きにして直接相手とコミュニケーションをとり、そこで生まれる熱を共有する。現場重視とはそういうことだ。また、自らを「実践主義」というように、直接行動が自身の本領を発揮できる場である。そのような自覚も込めているようだ。
本村氏の話には現場という語が頻出する。しかし、彼の言うそれは事業拡大のための拠点というよりは、分け入った森の中を駆ける中で次々と開けて来る光景をイメージさせる。目に映る景色は歩みを進めるにしたがって変わって行く。
どういうことか。たとえば叔父に影響を受け、16歳でビジネスの世界に進もうと決意する。少年を熱くさせたキーワードは「起業・ベンチャー・経営」といった、起業を志すものならば誰しも感応する言葉だ。ただし、彼は希望に胸を膨らませることに満足することなく、歩みを進めた。
まずは周囲の実業家に話を聞いてまわった。大手美容サロンの社長からコンビニの経営者、弁当屋など、ともかく気になる人に片っ端から会いに行き、話を聞いた。
高校卒業後、ビジネスを学ぶためにアメリカに留学する予定だったが、ある会社の経営者に出会った。本村氏曰く「ビジネスのステージを用意してもらった」。与えられた現場は派遣業で、20人程の部下を預かり、営業に邁進した。
「リストアップした客に寝る間を惜しんで営業電話をかけさせました。周囲で交わされる会話は四六時中、お金を得るメソッド。そういうことにだんだん“何か違う”と思い始めました」
違和感はあるものの、たんに辞めるのは悔しい。ちょうど持ち上がっていた社内ベンチャーに参加し、起業することにした。それからの2年、収益はあったがインセンティブ制の内実をよく理解していなかったせいもあり、手元にほとんど利益が残らなかった。部下の人生を考えた上で事業を閉鎖する事が最善だと考え彼はアメリカへ旅立った。
転換は次の現場、アメリカで訪れた。大学の講義で社会学の基礎を学ぶ中、貧困や社会構造という語を耳にするようになった。それが本当に何を意味するのか確かめるため夏休みを利用し、インドへ向かった。そこで目にした物乞いの光景に「貧困とは何か」への答えを見た気がした。
「それまでは貧困をお金のなさやその国が持つ資源の乏しさだと考えていましたが、そうではなく情報の不足、制度の押し付けにより自由に発想できない状態を強いられた状態。つまりイマジネーションの枯渇した状況だと知りました」
自己の生を思い描くことを誰からも禁じられないこと。最大多数が最大幸福を得られる社会をビジネスによって築くこと。この発想は彼の中でのイノベーションだった。
次いで、その価値観を体現している人に会うことが最善の教育であると考え、マイクロファイナンスの先駆者であるムハマド・ユヌスに会おうとバングラデシュに向かった。会うことはかなわなかったものの、思わぬ人物との縁が生まれた。それがマスクード・シンハだった。ゴミを再資源する事業で350万人の雇用を生み出した社会企業家だ。
3時間に及ぶ話の中で、「いかに貧困から人々をエンパワーし、自身のビジネスを持続、拡大するかについての話を聞かせてもらった」という。
本村氏がいちばん感化されたのは、シンハの得たノウハウではなく、何をどう捉え、見て、行動するかという観点と発想だった。
「まず誰のどの状況を変えたいのか。ビジョンが明確でないと人はついてこないから何も始められない。そして、課題を徹底的に考え抜く。その基礎ができている人間には、確実にチャンスはめぐってくる」
先進国でなくともビジネスはできる。しかもビジネスによって社会的な課題を解決できる。その現場に自らが参加する上での課題を「お金で人を動かすのではなく、社会的な大義やビジョンで人を向かわせる。そういうマネジメント手法を学ぶ」必要を感じ、アメリカから帰国後、広告制作会社に就職。2年後に起業する時限を区切っての選択だった。
予定通り09年4月、グランマを創業。ソーシャルマーケットを活性化したいという意欲はあったが、当面の収益をあげる必要があった。そのため本来のビジョンやミッションの事業化には傾注できず、公益団体からの委託事業、イベントの立案から企業CSR担当者への営業活動など、「目の前でできる仕事をまずはやっていく」ほかないスタートだった。日銭は稼げるかもしれないが、何も生み出していないとの思いが募った。
「自分は決断していないだけだと思い、いったんやりたくないことを辞めた。その途端、パートナーが現れ始めたので、じゃあもっとやりたくないことを辞めよう。そうしていくうちに『世界を変えるデザイン展』につながった。自分たちのやりたいことをやろうとした第一弾がこの展覧会です」
今後、本村氏は展覧会を全国に巡回させる予定だ。日本の中小企業の優秀な技術力やデザイナーとの交流機会として活用し、途上国のニーズにかなった製品を開発できる土壌をつくりたいと考えている。
また、中小企業の人々とデザイナーが協働できる場を作り出すため、今年中にも千葉県に人が集まれる場の創出を予定している。
グランマという社名はカストロやゲバラが革命成就のためキューバに向けて乗り込んだ船名に因んでいる。本村はこれからどの方角に舵を切るつもりなのか。ひとつには、土地勘のあるバングラデシュを根城にしたビジネス展開を考えている。
「イスラム圏に根をはろうと考えています。彼らも新しいものをつくっていかないといけない意識になってきている。その上、イスラム圏のネットワークは人口も多く人同士の結びつきが強い。 中国を抑えるよりも広がりがあるのではないかと見ている」
ビジョンのブレイクダウンはこれからの作業だ。ときに未来像を描くものは、夢想を語ると同義と見なされ、「ここで跳べ。ここがロードスだ[1]」と、いまここでの証明を迫られるのがつきものだ。
だが未来につながる目前のまだ形定まらぬ現場が常にロードスなのだ。本村氏のいう実践主義とはそういうものかもしれない。